「タマリバの経典🥚」

タマリバの経典

「タマリバの経典🥚」は、タマリバがどんな前提で、どんな考え方を大切にしているかをまとめた、いわば「解説本」です。

現時点で言いたいことを、いったん詰め込んでいます。
ここを読めば、「タマリバ」が何を前提に、どんな姿勢で記事を書いているかが分かるはずです。

ただし、「タマリバの経典🥚」は、タマリバのコンセプトをもっと深く知りたい方向けの記事です。

ですので、まずは、他の記事をいくつか読んでみてください。

他の記事は、主に、たまごキャラたちの会話形式で、「でも、こういうときはどう考えればいいんだろう?」とか「とはいえ、こういうハードルがあるときどうしたらいいんだろう?」という心配事に、ひとつずつ、仮の答えを置いていく記事にしています。

他の記事を見ていったあと、タマリバはどういう考え方をベースに記事を書いているんだろう、と気になった方向けに、この「タマリバの経典🥚」をまとめました。

長いですが、タマリバに共感していただける方にはぜひ読んでいただきたいです。

では、どうぞ。

背景

タマリバの核となるポリシー「わからない」

今の時代に合った、自分の生き方なんて、誰にもわからない。

とにかくこのことを言いたい。

というのも、今の時代、世の中からの「わかると思わせたい力」を、強制にも似た強さで感じるので、反射的に、あらがわなければならないと感じている、というのが本音なのかもしれない。

ちなみに、ここで言う「わかる」とは、「自分の考え方がベストである」という思い込みのこと。

そうではなく、あくまで自分が至っているその考え方は、世の中に色んな考え方がある中でのひとつの考え方であり、
ある基準で測れば、ベストだと評価できてしまうかもしれないが、「別の基準で測れば」別の考え方をベストだと評価できてしまうわけで、
「自分の考え方がベストである」というのは思い込みである、という認識を持つのが、「わからない」という考え方。

「わかると思わせたい力」に抗い、「わからない」という信念を持っていたい。

それが核にある。

いつかわかるようになるか

では、いつか「わかる」ようになるか、というと、どこまでいっても「わかるようにはならない」と思っていたほうがいい。

なぜなら、
「わかる」とは、「自分の考え方がベストである」という思い込みのことであるなら、

世の中に色んな考え方が生まれ続ける限り、そしてそんな世の中全ての考え方を把握することが不可能である限り、自分の考え方がベストという状態にはなり得ないはず。

それにも関わらず、世の中には、「わかると思わせたい力」が存在する。自分自身も「わかっていると思いたい」気持ちがどこかにある。

この文章でさえ、わかった気になって書いてしまいそうになっている。もしそう見えてしまったら、「わかると思わせたい力」に毒されそうなっている状態に他ならない…。

けれども、そんな力にあらがって、信念を持ち続けたい。

「今の時代に合った、自分の生き方なんて、誰にもわからない」と。

これを最も根源的なポリシーにしたい。

わかると思わせる力(論理の誤解)

さて、「わかると思わせたい力」を捉えようとすると、いくつかの視点がある。

ひとつには論理の誤解というもの。

論理というのは、ロジックつまり「回路」のことなので、出発点と終着点を結ぶ道のこと。どんな出発点でも終着点でも構わない。

りんごは、おいしい、という間に、なぜならば、という道をつくることもできるし、
りんごは、おいしくない、という間にも、なぜならば、という道をつくることができる。

論理的、というのはその程度のものであり、りんごがおいしいかおいしくないかを、選択しているものではない。

どうもこの論理的につながっていることを「わかる」と思ってしまいがち。ただつながっているだけなのに。

「あれが悪いから、こうなってるんでしょ」
といった類のものは、論理の誤解が生んでいる発言であり、基本的には、正しいとも正しくないとも言えない。

わかると思わせる力(社会への過剰適応)

もうひとつに、社会への過剰適応がある。

例えば、「日本の常識は、別の国では非常識」ということを聞く。宗教的な規律・慣習も、特に「違い」を生じさせる。

この「所属している社会の中での価値観」を「常識」とするのは、とても人間的なのだが、「違う社会では、違う常識がある」ということを忘れさせる力を持つ。

ここで言う「社会」というのは、「人の集まり」であり、大小様々で、国や宗教から、会社や地域、SNSのつながりや趣味コミュニティなど、「所属することで結果的に価値観を共にするもの」を指している。

こうした「所属している社会での価値観」に過剰適応してしまうと、他に選択肢がないものと思い込んでしまいがち。

「こういうときには、こうするものでしょ」
「これが常識でしょ」「これがあたりまえでしょ」
といった類のものは、社会の価値観への過剰適応が生んでる発言であり、多くは、別の選択肢が存在しているはず。

「個人」が孤立する時代

加えて、やや時代予測的な話をすると、

個人が社会から突き離されてしまう時代が来ようとしているのを感じる。

特に近年は、企業に多くの人が集まっていたことで、企業で働くことが人生の中心になる価値観が強かった。

しかし、今後、企業は多くの人を抱える理由が薄くなる。DXやAI活用などにより社員の数を減らすことができ、かつ、ハラスメントなどのコンプライアンスなどにより雇用するデメリットが大きくなり避けたくなる。文句ばっかり言うならいらないよ、と。

個人の人生のための環境を用意してくれていた社会が、メリットが小さくデメリットが大きいなら、とその環境を用意しなくなれば、個人は社会からのサポートを失う。終身雇用など無いし、必要な教育も提供してもらえない。

結果、個人は、サポートなしに、自らの人生について考えなければいけなくなる。

「個人」が目指すもの

今の時代に合った、自分の生き方なんて、誰にもわからない。
そして、その生き方へのサポートも得られないとしたら、個人はどのように人生を考えたらよいのか。

定年まで働いて余生を過ごすのか。もしくはとにかく日々働いて遊んでを繰り返して過ごすのか。

いずれにしても人生の大半の時間を仕事に使いすぎではないだろうか。仕事以外のわずかな余りの時間だけしか自由に使えない人生なのだろうか。

そんな人生のリスクは何かといえば、年を取ったときの後悔。あれやっておけばよかった、これをやっておきたかった、と。

でも、年をとる前に、もし、少しでも、自分が将来後悔しそうなことが見えているのであれば、今から、何に後悔しそうだろうか、と考えておくと良いのではないだろうか。
自分は年取ったとき、何をやっておけばよかった、と思うだろうか、と。

その中で、今からでもやれるのであれば、それがやれるうちに、できるだけ早くやったほうがいい、となるはず。
だって、どんな生き方が「良いか」なんて、「わからない」のだから。

では、もし、「それをやるにはもう遅い」というものがあったらどうするか。もう無理だな、と諦めることもできるが、意外と、やり方を変えればまだできるんじゃないかという方法を探ってみてもいい気がしてくる。

それを模索し続けてみたい。

やりたいことに取り組みやすい40歳から60歳という年代

世代背景

実は、この「やりたかったこと」「やっておけばよかったと思いそうなこと」に取り組みやすい年代がある。

それは、40歳から60歳あたりの年代。

この年代は、うまくすれば、「意外とまだできる」ことが多くなる年代。

例えば、健康やお金や時間、このあたりをうまく整え、余白をつくることができれば、「やりたかったこと」が「もう遅い」ではなく「意外とまだできる」になるものが結構あるはず。

この、「意外とまだできること」に取り組むための、時間的かつ精神的な「余白」をつくりやすいのが、40歳から60歳あたりの年代。

なぜなら、知識と経験を蓄積してきていて、まだ残る体力があるから。これらを活用すれば余白をつくることができる。余白ができれば、やりたいことができる。

もちろん、これは年代を限定する話ではない。「やりたかったことをする」という意味では、どんな年代でも共通している。

また、余白をつくるのではなく、全時間を「やりたいこと」に一球入魂、全力集中するという選択もある。それを否定するものではない。

ただ、「今やってることは続けたい」「ある程度は続けなければならない」という状況下で、「やりたかったことをやる」という模索をするなら、「余白をつくる」ということが必要になってくる。

時代背景

もうひとつ、この年代の時代的な特徴がある。それは老後までの時間が延びたというもの。

これまでの時代であれば、定年後が老後というイメージが強い。定年が60歳から65歳であれば、その直前の40歳から60歳は老後の準備が必然的に視野に入る。

しかし、人生100年時代になってくると、60代は老後というには若すぎる。まだまだ元気で過ごし、80代くらいからようやく老後に入る。

であれば、40代くらいから老後の準備をするのは早すぎるので、40歳から60歳が「ぽっかり空く」

なので、時代が変わったことで、40歳から60歳は、これまでの時代より元気になり、これまでの時代より老後の準備を少し後回しにできる。

つまり、40歳から60歳は、時代変化的にも、「やりたかったこと」「やっておけばよかったと思いそうなこと」を人生に組み込みやすい年代となる。

キーワードは「やってみる」

では、そんな、「やりたかったこと」「やっておけばよかったと思いそうなこと」を人生に組み込むためにはどうしたらよいか?

キーワードは「やってみる」

これは、これまでの仕事のように、多くの時間を使って追い求めるものではないということを強調したいためのキーワードで、

重くとらえないで軽はずみな気持ちで、
周りの誰かにどう見られるか考えずに、
そのあと継続することまで見据えずに、
短時間で簡単に気楽にできるものから、
とりあえずスタンプラリー的な気分で、
自分のテンションが超上がるものから、
仕事や人生に活かそうなんて考えずに、
何かに絞らずむしろ四方八方に雑多に、

とにかく、やってみる。

行動してみることが目的だが、時間的にも精神的にも、「今の人生を圧迫するものではない形」にすることを重視したい。

例えば、英語の教室に「通う」となると、定期的な時間を確保したり、どの教室がいいか比較検討したり、と始めるまでのハードルがいくつもあるが、体験レッスンなら、それらを気にせず、とりあえず行ってみればいいし、後のことは行った後に考えればいい。

とにかく「やってみる」が40代くらいにはちょうどいい

特に40歳から60歳は(それ以外の年代もだが)、仕事など人生の中心となる時間がすでに大きな時間を占めている。その延長での将来への準備も必要となる。

そんな中で「余白をつくる」のだから、仕事などの時間を邪魔せずに、軽くできるものから始めた方がいい。

もし、これは時間をさらに投入したいと思えたら、時間の配分を大きく変えにいってもいいが、この「やってみる」のポイントは、「続けたいとまで思えるかわからないが、やってみたいとなんとなく思っていること」を「やってみる」なわけで、

おそらく、多くの「やりたかったこと」や「やっておけばよかったと思いそうなこと」は、そのくらいの温度感のものだと思う。

けど、そのくらいのものでも、そのままにしておくと将来後悔してしまいそうなのだから、不思議。

つまり、「やってみたいなぁ」と思ってるだけだと、自分に合っているか、続けるほどやりたいものなのか、がわからない。

なので、「続けたいと思えるか」を感じてみるためには、とりあえず「やってみる」ことが大切、ということになる。

40代から視野を広げるための「やってみる」

30代まで仕事をしてきていると自分の中に「軸」ができているはず。スキルや経験、仕事の仕方など、自分の中心となる価値観が定まってくる。

こういうものだろう、と。

それは人生を組み立てていく上で大事にしたほうがよいものだが、だからといって、30代までにやってきたこと「だけ」を軸にすると、先細りする。それだけで戦うには、今後の時間が長すぎる。もたない。

40代から、「やってみる」を増やしたほうがいい背景には、こういう側面もある。

つまり、これまでの経験値「以外」の軸(視野)を持つために、これまでの仕事などで経験できなかったことを「やってみる」ことで、将来の可能性が格段に広がる。

仕事の幅が広がるし、仕事に活かせる知見が広がる。人生が仕事以外に広がるし、結果仲間も広がり、精神的なバランスも取りやすくなる。

そして、この「これまでの仕事などで経験できなかったことを「やってみる」」ができるのは、40代くらいがちょうどいい。後ろになっていくと新しい経験に突入できる体力や精神力が減ってくる。

では、どうすればいいか

ポートフォリオという考え方

さて、「やってみる」を散りばめていくと、「続けてみたいかも」と思えるものに出会うことになる。もちろんこれも、「一生の趣味だ」というような重いものではなくてよく、「もう少し続けてみたいかも」程度のものでも良い。良いが、それでも続けるとなると、時間の確保が必要になる。

そこで便利なのが、「ポートフォリオ」という考え方。

ここで言う「ポートフォリオ」とは「自分に合った配分」のこと。
特に、ここまでの説明の文脈で言えば、「自分に合った時間配分」のことが「ポートフォリオ」という考え方であり、特に、40代からの人生にとってとても有用なものになると思う。

例えば、1日24時間のうち、寝る時間が8時間だとすれば残り16時間、この16時間をどう使うのか、ということ。
人によって、全部を仕事に使ってもいいし、10時間は仕事で残りの6時間は遊び、としてもいいし、はたまた4時間が仕事で5時間は遊びで7時間は勉強しようか、という作戦を練ってもいい。

このように、持っている時間を、いくつかに振り分けていく。これが配分であり、ポートフォリオという考え方。
そして、この振り分ける数も、自分に合った数がある。なので、自分に合った数に、自分に合った割合で、配分するのがポートフォリオ。

特に時間労働的な仕事は、単純に言えば、自分の時間を仕事にささげてお金を稼ぐ。
なので、自分の時間をささげればささげるほどお金になるのであれば、時間とお金が相反してしまっている状態。

けど、お金を稼ぎ続けて一生という時間が終わっていいのか、と言えば、自分のやりたいことをする時間も必要なのが人間。

であれば、稼ぐ時間(お金のための時間)と、自分の自由にできる時間のバランスつまりポートフォリオを、真剣に考えるべきだし、仕事的にも一段落つくであろう40代あたりは、一度見直すにはよいタイミングだと思う。

そして、このポートフォリオという作戦を経て、「余白をつくる」のが、40代からの人生の起点となるのではないだろうか。

どのように余白をつくるか

では、どのように「余白をつくる」かといえば、整理整頓と圧縮。

部屋全体に散らかった荷物たちを圧縮して、収納におさめていくように、
1日全体や1週間全体を占めている時間の使い方を圧縮して、より少ない時間におさめていく。

最初は無理だと思うだろうが、部屋の整理整頓とやるべきことは同じで、必要なものと必要じゃないものを振り分けていく。

そのために、今、全体は、どのようなものに時間を割かれているかを書き出してみる。圧縮できるものはないかと考えてみる。

ここから始まる。

ちなみに、時間だけではなく、お金の「余白をつくる」のも、やるべきことは近い。

今何にお金を使っているか、それらは本当に必要か、圧縮できるものはないか、と考えてみる。

もし「必要な時間やお金」が、今の半分になるなら、その残りの半分が、自由に使える時間やお金となる。

余白で何をすべきか(テーマの言語化)

さて、自由に使える時間やお金ができたら、何をすべきか。

それこそ自由に使えばいいのだが、場当たり的になっても、途中で、これでいいんだっけとなってしまう。

年をとった時に思いそうな、「やりたかったこと」「やっておけばよかったと思いそうなこと」を完全に想像するのも限界がある。

特に、「今の時代に合った、自分の生き方なんて、誰にもわからない」のであれば、
どこまでいっても、あれやっておけばよかった、これをやっておきたかった、といつか思ってしまうリスクがある。

それをできるだけ避けようとするなら、ひとつのアイデアとしては、
その時々の自分の生き方の「仮のテーマ」を設定すると、リスクは抑えられる。

個別に、あれもやりたい、これもやりたいと発想してしまうと、どの時点においても、あれやっておけばよかった、これをやっておきたかった、という思いが浮かんでしまう。

それではもぐらたたき状態。

そうではなく、いったん自分の人生としては「これをテーマに生きてみよう。そのために、これとこれとこれをやろう」という考え方をすれば、
その後、やりたいことを残してしまっていても、そのテーマに向けて生きていたんだと思えれば、後悔も小さくなるはず。

生き方のテーマと社会との接続

さて、その、自分の生き方の「仮のテーマ」は、その時々の仮のものなのでどんどん変わっていい。

ただ、変わっていいけど、うまく変えていきたい。
そのためには、「常に新しいことに興味を持つ」こと。

特に、おすすめは「色んな人のやっていることに興味を持つ」こと。

「社会」は、「人の集まり」であり、「自分」はその「社会の中の一部」であるなら、必ず人と関係して生きていくことになる。

であれば、自分の生き方のテーマも、必然的に、「誰とどう関わるか」というキーワードになった方がいいはず。

そして、「自分の考え方がベストだ」とならないように、新たな誰かの視点(過去の偉人の視点という意味で読書も含む)を取り入れることで、自分の考え方を常に広げていくことが、自分の生き方のテーマの見つけ方(探し続け方)なのだと思う。

ちなみに、タマリバは、「この想いに共感してくれる人たちと、学び続けたい」というのがテーマとなっている。

多くの人たちと、生き方のテーマについて語り合いながら、たまに興味をもった誰かの活動にも関わり合いながら、みんなで人生を楽しんでいきたい。

さらにもっと深く知りたい方へ

タイトルとURLをコピーしました